日韓通訳・翻訳の単語帳

主にキリスト教(プロテスタント)・ITの用語を収集します。たまに翻訳もします( ⊙‿⊙)

う~ん

もうちょっと頑張って更新したいとこだけど疲れちゃった
時間はたっぷりあるのに今までの人生で頑張りすぎたせいか
普段の日常を保つことで精一杯
モチベーションの維持って、生きることって難しい

いつか本も出したいのにこのままじゃ何年が経っても無理だね…
短期ミッション(ビジョントリップ?)に参加する通訳さん向けの
ハンドブックなら今でもなんとかできそう

まずは不眠症治したいので病院行きまーす

자투리 단어

비방 そしり
비방하다 そしる
배도 背理(はいり)
후미, 꼴찌, 맨 뒤 しんがり
모욕을 받다 はずかしめられる
세상의 더러운 것, 만물의 찌꺼기 この世のちり、あらゆる物のかす
정처가 없다 落ち着く先がない
기대를 저버리다 期待(予想)に反する、期待(予想)を裏切られる 、期待に背く
담대하라 勇敢でありなさい(요16:33)
雄雄しくあれ(신31:6)
돌자갈밭 土の薄い石地(いしじ)
가시떨기 いばらの茂み
(교회)상조부 互助会?

メッセージの翻訳(韓→日)

2017.11.12 メッセージ
へブル人への手紙の講解 (22) 「私のために、からだを造ってくださった」

御言葉

8 すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、
9 また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました。」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。
10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

8 위에 말씀하시기를 주께서는 제사와 예물과 번제와 속죄제는 원하지도 아니하고 기뻐하지도 아니하신다 하셨고 (이는 다 율법을 따라 드리는 것이라)
9 그 후에 말씀하시기를 보시옵소서 내가 하나님의 뜻을 행하러 왔나이다 하셨으니 그 첫째 것을 폐하심은 둘째 것을 세우려 하심이라
10 이 뜻을 따라 예수 그리스도의 몸을 단번에 드리심으로 말미암아 우리가 거룩함을 얻었노라

メッセージの翻訳文

挨拶しましょう。お会いできて嬉しいです。

今日はへブル人への手紙10章を見ていきたいと思います。今日の御言葉は、10章8節から始まります。実は、聖餐にも関わる重要な御言葉です。

まず、1節から4節まではなぜ旧約の律法やささげものがかけのあるものなのかについて話します。1節で「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです」と言っています。

律法は、後にくるすばらしいものの写しにすぎません。写しが影にすぎなかったら、これの意味は「影には、実体がある」ということです。これから旧約で予言している影と、影の仄めかしている実体はなんなのかについて見てみましょう。

へブル人への手紙10章5節を読んでみましょう。

5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。

この文章をよく見てみると、この手紙を書いた人が旧約を引用していることが分かります。詩篇の40章を引用しています。字幕に頼らないで、今週は御言葉を直接探してみましょう。

詩篇40章

1 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私の方に身を傾け、私の叫びを聞き、

2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。

タイトルには「ダビデの賛歌」と書いてあります。

ダビデが苦難を経験してから作った賛歌のようです。恐らく彼は地獄を彷彿とさせる経験をして、この賛歌を作ったのではないでしょうか。まだその「実体」は分からなくても、それを渡されて、足を巌の上に置かれたと書いてあります。巌は主に「逃げ場」、「拠り所」、「身を隠せるところ」という意味で使われることが多く、ひいてはイエス・キリストを暗示することもあります。

ダビデはこの賛歌を単なる歌ではなく「新しい歌」だと言っています。皆さんのご存知の通り、ダビデはミュージシャンです。野で羊を飼っているときに曲を作っていました。彼はすばらしい演奏者であり、詩人であり、感受性の強い人でもありました。では、この新しい歌というのは、どんなものでしょうか。これまでとは違う歌という意味ではないでしょうか。もうちょっと御言葉を探してみると、詩篇40章3節に彼がこう語っているのがわかります。

3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。

歌は聴くものです。しかし彼は多くの人が聴くのではなく、「見る」と書きました。どうやってそれができるのでしょうか。そして、恐れ主に信頼すると書きました。総合的に見てみると、これは間違った文章ではありません。何者かが、ダビデが死の川を渡るためにどこかが変わった彼の姿を見たということです。それはなんでしょうか。一体、彼になにが起きたのでしょうか。

詩篇40章4節から5節を見てみましょう。

4 幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。

5 わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。

ようやく本題に入りました。詩篇40章6節が、へブル人への手紙を書いた人の引用元です。

6 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

旧約からいけにえやささげものを除くと、あとはなにも残りません。これは旧約の時代なら誰も想像できない、革命のような話です。旧約時代を生きていた民の暮らしの中心は、ささげものであるはずなのに、さらにいけにえとささげものをお喜びにならず、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めにならなかったと書いてあります。これはありえないようなことです。そして、ダビデは自分の聞いたことを引用して「巻き物の書に私のことが書いてある」と話しています。ここまでがダビデが聞いた話です。その次に、「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります」と話しています。神様がいつか来られるイエス・キリストダビデに見せられたのです。メサイアに目を向けさせました。「巻き物の書」とは、未来に来られるイエス・キリストについて記した本です。巻き物とは、旧約聖書を意味します。

旧約聖書が指差しているのは、イエス・キリストです。これまでがダビデが聞いたメッセージです。参考に、もう一箇所見てみましょう。

詩篇51章16節から17節です。

16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。

17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

詩篇40章と同じ内容が出てきます。「神へのいけにえは、砕かれた霊」と「あなたはいけにえを喜ばれません」です。つまり、40章と50章は同じ事件を経験してから、悔いた心で告白を記した本なのです。ダビデは殺人と姦淫を犯した後に、ナタンの叱責によって崩れ落ちます。改めて自分の中に善がなく、罪の中で生まれたことに気づかされます。ダビデはこう告白しています。神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

詩篇51章1節から3節を読んでみましょう。

指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき

1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

ダビデは、これから来られるメサイアについて、いつ気づかされましたか。自分の中に善はないということに気づいたときです。我々はそのことによって、裁かれて当然の生き物です。

旧約のいけにえから私たちが学ばなければならないことは、私たちが罪人であることを自覚し、目をさますことです。だから、私たちは欠けのあるいけにえの血ではなく、欠けのないいけにえを必要とします。神様はそれをダビデの耳を通して私たちに教えてくださいます。そのいけにえとは、十字架に欠けられ自らをささげられたイエス・キリストです。旧約の信徒は律法ではなく、キリストの死と贖いによって救われます。信じますか?

今日このメッセージが、聖餐に参加した信徒の心の中に、再び恵みによって救われ、その恵みを体験した人々が新しい歌を歌いながら、神様を恐れ神様に栄光を帰すキリストのメッセンジャーになりますように。アーメン。